2017年03月22日
わたしのこと~1~
◆人生を左右したのは大好きな父の事故・・・
大学では写真学科で4年間、主にカメラマン志望の仲間と学んでいました。
その中で、自分は撮ることよりも作品を鑑賞したり、
そこから作家の意図や映し出されているものを読み解く作業が好きなのだということを感じました。
そのことが報道関係の仕事をしたいという夢にシフトしていき、24歳で渡英、
ロンドンの写真大学の大学院に入るこが決まっていました。
入学までの半年間、付属の英語学校で留学生向けの準備コースを受けていました。

来週から本コースが始まるというときに、父が仕事中に大きな事故に遭い、今夜が山だという連絡が入りました。
わたしには姉が一人いますが、彼女は嫁いでいて、その半年前に赤ちゃんを産んだばかり。
実家から車で1時間ほどかかる旦那さんの実家で同居生活をしていました。
実母と二人で、事故の対応や大きな決断をするにはあまりに心細い状況であることは容易に想像がつきました。
母は現役の会社員、今現在でもきっと手一杯で、今後たとえ父の命が助かっても、もとの元気な父には戻らないことは明らかで、
日常が始まったらこのままではいられないと思い、入学を取りやめて帰国を決めました。
幸い父は命を取り留めましたが、完全な回復は望めないことが医師から告げられました。
父は両膝を粉砕解放骨折(骨がバラバラになったうえ、体から出てしまった状態)しており、
二度と立っては歩けない事、頭を強打していたので視覚、嗅覚の神経が傷付き後遺症が残ること、
さらに高次脳機能障害と診断され、うつ病や記憶障害を発症する可能性があるとのことでした。
建設業に従事していた父は、それまで元気に働き、
当然一家の中心として頼もしく家族を支えてくれた大きな存在でした。
突然の変化を、母に受け止められるはずもなく、仕事を辞めると言い出した母をなだめ、続けるよう促しました。
当時の女性としては珍しく、父の理解もあり結婚後も一般企業で勤続年数を重ねていました。
「仕事」は彼女の人生の支えでもあったので、失くしたら今後大きく後悔するだろうことも想像できました。
この状況を受け止めていく支えが、わたしの「仕事」なのだろうとも思いました。
体力自慢だった父。フットワークが軽くて人情に厚く、家族以外にも気を配って頼りにされていた人で、
そんな人がいきなり自由を奪われ痛みと闘いながら、我が身に起こったことを受け入れていくことは、
簡単ではなかったと思います。
そんな父をそばで支えることを決めたことを、わたしは後悔しませんでした。
子どものころから父が大好きで、幼少期を振り返ると忙しかった母との思い出よりは、
連れ出してくれたり、よく面倒見てくれた父とのかかわりの方が色濃く残っています。
長い入院生活にリハビリ通院、たくさんの時間を父と過ごし、父の見聞きしてきた知識や考えにたくさん触れた時間でした。
一緒に過ごし、苦しみを少しだけ分かち合えたのではないかと思います。
とはいえ、父に寄り添った4年間は自分との闘いでもありました。
自分の意志で夢をあきらめ、家族を背負うと決めたのに、やはり手放したものの大きさに後悔も覚え、
ほかに方法がなかったのか、自分の決断は本当に正しかったのか、葛藤の日々でした。
軽いうつ状態になり、通院もしました。
そんな中、「二度と歩けない」と宣言された父でしたが、自分で立ってゆっくりでしたが歩けるようになり、自力で身の回りのことができるまでに回復しました。近所なら車の運転もできるほどでした。
渡英前から交際していた現在の主人の支えもあり、母が定年退職して落ち着くまでの期間を「父をサポートする」ことに専念し、
その後結婚することになりました。
そのとき、わたしは29歳でした。
つづく
2017/03/23
ご予約・お問い合わせはこちら
大学では写真学科で4年間、主にカメラマン志望の仲間と学んでいました。
その中で、自分は撮ることよりも作品を鑑賞したり、
そこから作家の意図や映し出されているものを読み解く作業が好きなのだということを感じました。
そのことが報道関係の仕事をしたいという夢にシフトしていき、24歳で渡英、
ロンドンの写真大学の大学院に入るこが決まっていました。
入学までの半年間、付属の英語学校で留学生向けの準備コースを受けていました。

来週から本コースが始まるというときに、父が仕事中に大きな事故に遭い、今夜が山だという連絡が入りました。
わたしには姉が一人いますが、彼女は嫁いでいて、その半年前に赤ちゃんを産んだばかり。
実家から車で1時間ほどかかる旦那さんの実家で同居生活をしていました。
実母と二人で、事故の対応や大きな決断をするにはあまりに心細い状況であることは容易に想像がつきました。
母は現役の会社員、今現在でもきっと手一杯で、今後たとえ父の命が助かっても、もとの元気な父には戻らないことは明らかで、
日常が始まったらこのままではいられないと思い、入学を取りやめて帰国を決めました。
幸い父は命を取り留めましたが、完全な回復は望めないことが医師から告げられました。
父は両膝を粉砕解放骨折(骨がバラバラになったうえ、体から出てしまった状態)しており、
二度と立っては歩けない事、頭を強打していたので視覚、嗅覚の神経が傷付き後遺症が残ること、
さらに高次脳機能障害と診断され、うつ病や記憶障害を発症する可能性があるとのことでした。
建設業に従事していた父は、それまで元気に働き、
当然一家の中心として頼もしく家族を支えてくれた大きな存在でした。
突然の変化を、母に受け止められるはずもなく、仕事を辞めると言い出した母をなだめ、続けるよう促しました。
当時の女性としては珍しく、父の理解もあり結婚後も一般企業で勤続年数を重ねていました。
「仕事」は彼女の人生の支えでもあったので、失くしたら今後大きく後悔するだろうことも想像できました。
この状況を受け止めていく支えが、わたしの「仕事」なのだろうとも思いました。
体力自慢だった父。フットワークが軽くて人情に厚く、家族以外にも気を配って頼りにされていた人で、
そんな人がいきなり自由を奪われ痛みと闘いながら、我が身に起こったことを受け入れていくことは、
簡単ではなかったと思います。
そんな父をそばで支えることを決めたことを、わたしは後悔しませんでした。
子どものころから父が大好きで、幼少期を振り返ると忙しかった母との思い出よりは、
連れ出してくれたり、よく面倒見てくれた父とのかかわりの方が色濃く残っています。
長い入院生活にリハビリ通院、たくさんの時間を父と過ごし、父の見聞きしてきた知識や考えにたくさん触れた時間でした。
一緒に過ごし、苦しみを少しだけ分かち合えたのではないかと思います。
とはいえ、父に寄り添った4年間は自分との闘いでもありました。
自分の意志で夢をあきらめ、家族を背負うと決めたのに、やはり手放したものの大きさに後悔も覚え、
ほかに方法がなかったのか、自分の決断は本当に正しかったのか、葛藤の日々でした。
軽いうつ状態になり、通院もしました。
そんな中、「二度と歩けない」と宣言された父でしたが、自分で立ってゆっくりでしたが歩けるようになり、自力で身の回りのことができるまでに回復しました。近所なら車の運転もできるほどでした。
渡英前から交際していた現在の主人の支えもあり、母が定年退職して落ち着くまでの期間を「父をサポートする」ことに専念し、
その後結婚することになりました。
そのとき、わたしは29歳でした。
つづく
2017/03/23
2017/09/01
ご予約・お問い合わせはこちら
Posted by ほのか at 12:19│Comments(0)
│わたしのこと